2009年06月29日

世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした遊牧民は

世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした遊牧民は、東ヨーロッパのバルカン半島や西アジアのアナトリア半島から黒海北岸平原・キプチャク草原・アゼルバイジャン・カフカス・イラン高原を経て中央アジアから北アジアのモンゴル高原まで至るY字の帯状に広がった騎馬遊牧民たちである。彼らは、キンメリア・スキタイの時代から、匈奴・パルティア・モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力・騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきた。

まとまった勢力として文献資料に初めてあらわれるのはキンメリア人であり、紀元前9世紀頃、南ロシア平原に勢力を形成したとされる。これに次ぎ、同じく南ロシア平原にスキュタイ人が現れる。スキュタイ人については、ヘロドトスの書物の記載が有名である。同じく歴史に登場するアケメネス朝もまた遊牧民を支配層とした国家である。このスキュタイとアケメネス朝が後に続く広域国家の二大源流といわれる。

ダイエット日記に挑戦
スキューバダイビングを楽しむ生活を!
ゴルフパークへようこそ!
おもちゃの小部屋
スターライトのカーマニア
ガーデニングの箱
かわいいネイルでオシャレ
キャリアセンターのカッパさん
キャンプねっと。ファミリー特集!
おしゃれな女性ファッション
クチコミグルメランキング
くるくるクーポン情報
ゴルフに連れてって!
てのひらでDVDポータルぴあ
とっておきのアウトドアスポット
マーメイドの観光農園視察
インターネットストーリー
マイホームの掃除術伝授
ママの携帯電話アリーナ
モデルのポンポン活動報告
ルーキーのグルメ食べ歩き!
仮面自動車視察ツアーの案内

4世紀頃にフン族が引き起こしたゲルマン民族の大移動が西ローマ帝国が滅亡した大きな要因であると言われてる。

13世紀頃、モンゴル帝国は中国・中央アジア・中東・東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」・「メルキト」・「ナイマン」・「ケレイト」・「タイチウト」など。

近代以前のほとんどの広域国家・帝国には遊牧民が関与している。中華帝国を例に取れば、漢・宋・明以外は遊牧民の王朝そのものか、その援助によって成立していた。[要出典] ただし、漢もまた武帝以前は匈奴の属国も同然であり以後も姻戚関係にあり続けた。しかし、匈奴は1世紀に南北に分裂し、南匈奴は中華帝国の後漢に服属し、北匈奴は後漢・烏桓・鮮卑に滅ぼされた。ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族が北匈奴の残党であるという説は有名である。そして、烏桓も中華帝国の魏に吸収された。しかし、中華帝国の西晋は南匈奴系の劉淵に滅ぼされた。さらに宋の建国の背景となった中核軍事集団は沙陀突厥系の遊牧民軍団を源流としていた事と、明が王朝の軍事力として多くのモンゴル集団を取り込んでいることを考慮すると、遊牧民の支配を跳ね返した漢民族王朝と呼ばれることの多いこれら二王朝も、その政権維持を支える軍事力の背景は遊牧民の影とけっして無縁ではない。

2009年06月11日

個人的体験のインタビューをもとにアクターが

ストーリー
プレイバックシアターの中心となる手法。個人的体験のインタビューをもとにアクターが即興劇を演じる。舞台準備の間などの即興音楽や、テラー(語った人)とコンダクター(指揮進行役)の会話なども重要な要素。
動く彫刻
起承転結のある体験ではなく、ある瞬間のテラーの気持ちや体験を再現する。短い手法の中では最も頻繁に演じられる。
ペアズ
コンダクターの質問に対して、会場に座ったままのテラーが「同時に抱く異なる二つの感情」を語る。語られた二つの対照的な感情や相反する気持ちを二人一組になったアクターがそれぞれに立ち位置を固定したまま演じる。
タブロー
テラーの話で五つの場面構成とタイトルを考えたコンダクターの語りにあわせ、まるで静止画のようにアクターは五つの場面を作る。ミュージシャンが雰囲気を情感豊かに表現することで静止画がぐっと生きてくる。
ナラティブV
舞台上にVの字型に並んだアクターの最前列者が、テラーが語ったストーリーを「物語」として三人称で語りなおす。それに伴った自然な動き。後ろのアクターもそれに続く。
スリー・パーツ・ストーリー
3人のアクターがストーリーを3分割し、順番に一人ずつ舞台を大きく使いながら演技し、自分が演じ終わったら彫刻のように静止する。最後に3人のアクターで構成された1枚の絵のようになって終わる。
コーラス
複数のアクターが同時に声と身体と動きを同じように使って表現する。アクターは、個としても集合体の一部としても存在しつつ、高揚感を持って動く。
ユニオンジャック
ユニオンジャックに使われている矩形と対角線を舞台上に想定し、アクター全員がその線上を移動しながら演じる。アクターの動きに多様性が持ち込め、ダイナミックなステージとなる。
パペット
人形劇のようなイメージで、人間の代わりに「物」が動き、アクターはそれにせりふをつける。舞台中央に簡単な幕を設置し、アクターたちはその後ろに身を隠している。
コラージュ
アクターは横に並んでたつ。ストーリーをいくつかの断片に分け、その断片ごとのストーリーを短く演じる。一つの断片を演じ終えるとアクター全員が静止する。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

主な形式と進め方 [編集]
プレイバックシアターを上演する主な形式としてパフォーマンスとワークショップがある。いずれの場合も基本要素となるものは観客、テラー、コンダクター、アクター、ミュージシャンそして舞台空間である。

パフォーマンス(公演) [編集]
パフォーマンスは、一般的に、コンダクター、アクター、ミュージシャンからなるカンパニー(劇団)によって上演される。60分から90分の時間帯で行われることが多い。観客数は、10人あまりの少人数から照明や音響装置のある小劇場空間で300人という場合まである。

オープニング
あいさつと演者紹介
プレイバックシアターの紹介
短い手法(タブロー、ナラティブv、コーラスetc)
ストーリー
ペアズ
クロージング 

ワークショップ [編集]
ワークショップは、コンダクター一人で、あるいはコンダクターと何人かのアシスタントで運営される。参加者は、テラーにも、アクターにも、ミュージシャンにも、ときとしてコンダクターにも、もちろん観客にもなる。時間枠は数時間のものから数日間のものまで様々。参加人数は10人から20人が望ましいとされる。

オープニング
参加者紹介
グループ作り
自発性と創造性の開発
ストーリーの引き出し
プレイバック体験
クロージング

2009年06月07日

富裕層を中心に当時まだ高価だったオートバイを

1950?1960年代頃から、富裕層を中心に当時まだ高価だったオートバイを集団で乗り回す若者が登場、マフラーを外してけたたましい爆音を響かせながら走り回る様から「カミナリ族」という呼称が生まれた。交通を妨げて疾走する事から交通事故が懸念されたものの、時代は高度成長期であったため、社会が大きく変容することのストレスを受けたモラトリアムの範疇として、マスメディアや文化人を中心にある程度容認される傾向も見られた。
生活雑貨 美容整形 家電 学習 アクセサリー プリスクール 旅行 若返り 特産物 サプリ 探偵 新築 不動産 防犯 審美歯科 ショップ 老人 衣料 教育 九州沖縄 ステイ スポット 理容 調査 矯正 老人 ポイント 老人 結婚 ぜん息 アウトドア 学習 老人 植物 家庭教師 ホテル 語学 水族館 美容 フレグランス サプリ 経営 引越し 老人 出会い ぜん息 食品 音楽 ペット 教材


しかし1970年代になると、オートバイは低価格化とともに庶民へも普及し、とりわけ不良少年のグループに浸透していくと暴行・恐喝事件を起こす傾向が強くなり、一般市民への暴力事件やグループ同士の抗争事件が社会問題として取り上げられるようになった。1972年に富山県富山市中心部の城址公園前大通りから端を発して全国に広がった騒動をきっかけに、「暴走族」の呼び名が広まり警察当局もこの名称を公文書に用いた[2]。東日本では1972年頃からグループ化が始まり、1974年には確認されているだけで86件の抗争事件が発生。1975年上半期の時点では、全国に571グループ、約2万3千人が存在しており[3]、包丁、火炎瓶、ヌンチャク、角材や木刀などで武装するグループも現れた。グループ同士の対立の増加は、結果として「自衛を目的とした連合の結成」を促すこととなり、1975年頃の大組織の台頭は小組織の小競り合いを減らした反面、抗争の規模を肥大化させ[4]、グループ同士の争いのみならず、暴徒化した一般の群衆を巻き込んだ暴動にまで発展する事もあった[5]。この時代になると、社会の安全を脅かす存在として、従来の「モラトリアムの範疇」という論は低調になっていった。

1978年に道路交通法の改正により「共同危険行為等禁止規定」が新設され、一旦は鳴りを潜めたが以後も再び勢威は増していった。元来のカミナリ族の嗜好に相当する、運転技術を重視するスタイルの者は、「街道レーサー」と呼ばれ、後に「走り屋」と自称するようになる。

2009年04月24日

ヨーガ

ヨーガ (Yoga) とは古代インド発祥の修行法。アーサナ(asana,姿勢)や、プラーナーヤーマ(呼吸法)のみを重視する健康ヨーガ的なものや、瞑想による精神統一を重視するものなど様々である。狭義には、六派哲学のヨーガ学派から始まった、解脱、すなわち個体魂の神への結合を実現するための実践体系を指す。

なお、ヨーガは現代人の生活に入り込んでおり、洞窟潜水などにヨーガを取り入れているダイバーもいる。最近ではヨーガを取り入れるスポーツクラブもあるが本格的なヨーガとは似て非なるものも多い。

ヨーガ Yoga は、「馬にくびきをかける」という意味の動詞「yuj」から派生した名詞である。つまり語源的に見ると、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようである。

探偵・旅行関連ライフレシピナビ
介護・予防法関連医学プラザガイド
ファッション・自動車関連オンライン通販情報
学習・専門学校関連学習らんど紹介
水族館・旅行関連リゾート総合
豊胸・審美歯科関連美容整形紹介
アフィリエイト・キャッシング関連最強のビジネス紹介
自動車・生活雑貨関連快適生活ナビ
抜け毛・整体関連健康プラザ検索エンジン
バイク・化粧品関連ショッピングスタジオ情報

一般的には「ヨガ」と認識されているが、サンスクリットで「O」(オー)の字は、常に長母音なので、正しくは「ヨーガ」と発音する。ただ日本語の長母音はサンスクリット語の三倍母音なので長くのばしすぎるのも問題である。インド人の発音を聞くとヨゥガと言っているように聞こえる。修行者はヨーギー(ヨーギ、Yogi)、女性の修行者はヨーギニー (Yogini) と呼ばれる。

仏教においては元のサンスクリットを漢字で音写して「瑜伽」(ゆが)と呼ぶか、あるいは意訳して「相応」とも呼ぶ(詳細は「瑜伽」の項参照)。

歴史
明確な起源は定かではないが、紀元前2500年-1800年のインダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘されている。同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっている。

ヨーガという語が見出される最も古い書物は、紀元前800年-紀元前500年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』である。また、紀元前350年-紀元前300年頃に成立したとされる『カタ・ウパニシャッド』にはヨーガの最古の説明がある。

感官の確かな制御がヨーガである (『カタ・ウパニシャッド』6-11)

2世紀-4世紀ごろ、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基礎として、その実践方法がパタンジャリによって『ヨーガ・スートラ』としてまとめられ、解脱への実践方法として体系づけられた。内容としては主に観想法によるヨーガ、静的なヨーガであり、それゆえ「ラージャ・ヨーガ」(=王・ヨーガ)と呼ばれている。その方法がアシュタンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)と言われる八つの段階のヨーガである。ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナヤーマ(呼吸法)、プラチャハーラ(一心集中)、ダラナ(凝念)、ディヤーナ(静慮)、サマーディ(三昧)である。また同書を根本教典として「ヨーガ学派」が成立した。同派は、ダルシャナ(インド哲学)のうちシャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに位置づけられている。

12世紀-13世紀には、タントラ的な身体観を基礎として、動的なヨーガが出現した。これはハタ・ヨーガ(力・ヨーガ)と呼ばれている。現在世界中に普及しているヨーガはこのハタ・ヨーガの方法である。内容としては難しい坐法(アーサナ)や呼吸法(プラーナーヤーマ)を重視し、"超能力"や三昧を追求する傾向もある。

ヨーガはバラモン教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。また、ハタ・ヨーガの経典の中にハタ・ヨーガ・プラディピカー、ゲーランダ・サンヒター、シヴァ・サンヒターもある。


2009年04月22日

西方地域でゴシック建築

神聖ローマ帝国では、1230年頃まで、特に西方地域でゴシック建築への反抗が根強く見られた。彼らはゴシック建築に無関心というわけではなく、いくつかの教会堂ではゴシック建築から採用されたと思しき装飾も見られるが、あくまで部分的な採用に止まり、構造的・美術的な原理としてゴシック建築を全面的に用いるということがなかった。バーゼルの大聖堂、リンブルク・アン・デア・ラーン大聖堂、ボンの大聖堂など、12世紀と13世紀初頭までのこのような傾向を持つ建築物をトランジション・スタイル(移行様式)と呼ぶこともある。

13世紀の中期から後期にかけて、帝国内でフランスのゴシック建築が定着することになったが、その伝播はいくつかの芸術の中心地からバラバラに広がる傾向にあったため、ゴシック建築の発展状況は、帝国の政治状況と同じく斑模様である。

トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン

いくつかの芸術的中心地を挙げると、まず、ハンザ同盟の市民によって競うように建てられた巨大建築物のひとつ、リューベックのマリーエンキルヘが挙げられる。これは13世紀末から14世紀初頭にかけて、バイエルンとプロイセン、デンマーク、スウェーデン、フィンランドなどで、一般にバックスタイン・ゴーティック(煉瓦造ゴシック)と呼ばれる建築を広めるきっかけとなった。構造として煉瓦を用いているため、細かい装飾は省かれ、むしろ構造を率直に表現する意匠となっている。

1235年に身廊の建設が着工されたストラスブール大聖堂は、14世紀になっても依然として帝国内で最大の建築工事として続行しており、これは15世紀中期にまで及んだ。サン=ドニ大聖堂とトロワ大聖堂を規範とした身廊を持つ大聖堂の造営工事は、14世紀半ばに技巧的には最盛期を迎え、エスリンゲンのフラウエンキルヘやウルムの大聖堂など、アルザスやライン川上流部に影響を与えた。1400年代に建設されたストラスブールとウルムの西側両尖塔に見られる独特の形状は、その図像芸術からヴァイヒャー・シュテイル(柔軟様式)とも呼ばれる。建築自体の影響力は、地域的には限定されていたものの、建築組合の影響は広がりを持っていたらしく、1459年には、ウィーン、ケルン、ベルン、プラハなどの大聖堂の建築工事が、ストラスブールの建築組合によって管理されることが決定した。ただし、この決定が建築の造営にどの程度影響を与えたのかはあまり明確ではない。

1248年に建設が開始されたケルン大聖堂もストラスブールと比肩しうる大規模工事で、フランスのアミアン大聖堂に依拠し、装飾についてはフランスを凌駕するほど壮麗な部分もある。この大聖堂の影響はラインラントに限られるが、オッペンハイムの大聖堂、バヒャラッハのヴェルナーカペレなどの技巧性の高い教会堂が残る。アーヘン大聖堂内陣もまた、ケルン大聖堂とパリのサント・シャペルの影響を受けたもので、カペッラ・ウィトレア(ガラスの祭室)と呼ばれる。

2009年04月05日

カウンターテナー

カウンターテナー(伊 countertenor)とは西洋音楽における成人男性歌手のパートの一つ。

カウンターテノールともいう。変声を過ぎた男性が裏声(ファルセット)や頭声を使って、女声パート(アルト、メゾソプラノ、ソプラノ)あるいは女声に相当する音域を歌うことを指す。ボーイソプラノや、バロック時代にみられた変声前に去勢することで高音域を保つカストラートは区別される。

英国などで合唱のアルトにカウンターテナーが好まれたこともあって「男性アルト」の意味で用いられることも多い。また、テノールの延長で高音を出すもの(オートコントルという声種があるが)も含まれることがある。

特にソプラノ(Soprano)を歌う男性は、女性並びの最も高い音域(C4?E6)を出し、カウンターテナーと区別して男性ソプラノ、ソプラニスト(英語)或いはソプラニスタ(Sopranistaイタリア語)と呼ぶことが多い。

成立事情 [編集]
中世のヨーロッパにおいては「女性は教会では黙すべし」という掟により、女性が教会や舞台の上で歌うことは禁じられていた。そこで、教会の聖歌隊では高音のパートつまり、ソプラノとアルトを、ボーイソプラノが担当していた。しかし、表現力に乏しく響きの弱いボーイソプラノのかわりに、アルトは成人した男性がファルセットを使って歌うようになった。これがカウンターテナーの始まりである。これは、特にイギリスの聖歌隊において伝統的に今でも続けられている。

その後、ソプラノのパートをスペイン系の非去勢男声ソプラノ(すでにカストラートの混在があったという説もある)が受け持つようになり、さらにカストラートの登場によってソプラノもアルトも彼らで占められるようになった。

カストラートの登場と衰退、その後の女性歌手の台頭により、カウンターテナーは長らく日の目を見ず、イギリスで細々とその伝統がまもられるにとどまる。しかし、第2次大戦後、アルフレッド・デラーの登場によって再びカウンターテナーは復活し、クラウス・フーバーなどの現代作曲家がこぞって作曲するようになり今に至っている。

アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート


2009年03月21日

7号御料車

7号御料車は、1914年(大正3年)11月10日、大正天皇及び貞明皇后の御乗用として鉄道院新橋工場で製造されたもので、翌年の大正天皇の御大礼に使用するため、9号御料車(食堂車)、賢所乗御車とともに製造されている。

車体は鉄道院基本形客車に属するダブルルーフの木製車で、明治44年度基本型の3軸ボギー台車を履いている。全長は20.677m、車体幅は2.591m、高さは3.778m、自重は35.35tである。外板は、チーク材の厚板を横張りにして平滑に仕上げたもので、深紅色の漆が塗られ、金線で装飾が施されている。

車内は、前位から厠(洋式。天皇用)、化粧室、剣璽奉安室、候所(拝謁者控室)、御座所、女官室、化粧室兼休憩室、厠(和式。皇后用)に区分されている。また、車体の前後の出入り台には、観音開き式の扉が設けられ、従来車の車体中央部付近に設けられていた天皇皇后専用の出入口は廃止された。

御座所の天井は、格天井で花葉の菱文様の絹張りで、腰部は深紅色のビロード張りである。引戸は、暗青色の石目漆塗りに花紋の螺鈿、蒔絵が施されており、入口は丸柱で螺鈿の飾りが施され、櫛形は菊の御紋章の入った七宝である。

本車は、昭和天皇の御大礼の際にも予備車として整備が行われ、その時に雷紋をやめて線模様の金筋としている。その後、1935年(昭和10年)12月に廃車され、以降は大井工場の御料車庫に保管された。

1952年(昭和27年)10月13日に東京の交通博物館に移され、それまで展示されていた9号御料車に代わって一般公開されたが、1963年(昭和38年)11月、同館にバス駐車乗用の敷地を提供するため、再び大井工場に戻った。1966年(昭和41年)、読売ランドで展示することになり、一時野外にあったため汚れていた外装の整備が行われた。その際、新製時の姿に復元することとなり、塗料は漆からカシウとなったものの、工場内に保管されていた雷紋のテンプレートを使用して金描が施された。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

本車は同年9月11日、トレーラーで読売ランドに輸送され、翌年1月から同園内に建設された専用車庫内で一般公開されたが、大井工場(東京総合車両センター)内に戻されている。2007年10月14日、さいたま市内に開館した鉄道博物館で三度一般公開されている。

2009年03月06日

マルコ・ポーロ(11894年、4,580トン、15.2cm(40口径)単装砲6基、17ノット)

アメリカ海軍
ニューヨーク(1893年竣工、8,200トン、20.3cm(35口径)連装砲2基+同単装砲2基、20ノット)1隻
→1911年2月、サラトガと改名→1917年12月、ロチェスターと改名
ブルックリン (1896年竣工、9,215、20.3cm(35口径)連装砲4基、20ノット)1隻
ペンシルヴァニア級(1896年竣工、9,215、20.3cm(40口径)連装砲2基、22ノット)6隻
ペンシルバニア、ウエスト・バージニア、カリフォルニア、コロラド、メリーランド、サウス・ダコタ
テネシー級(1896年竣工、9,215、25.4cm(40口径)連装砲2基、22ノット)4隻
テネシー、ワシントン、ノース・カロライナ、モンタナ
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

イタリア海軍
マルコ・ポーロ(1894年、4,580トン、15.2cm(40口径)単装砲6基、17ノット)1隻
ヴェットール・ピサニ級(1898年、6,720トン、15.2cm(40口径)単装砲12基、19ノット)2隻
ヴェットール・ピサニ、カルロ・アルベルト
ジュゼッペ・ガリバルディ級(1901年、7,350トン、25.4cm(40口径)単装砲+20.3cm(45口径)連装砲1基、19.7ノット)3隻
ジュゼッペ・ガリバルディ、ヴァレーゼ、フランチェスコ・フェルッキオ
ピサ級(1909年、9,960トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23ノット)2隻
ピサ、アマルフィ
サン・ジョルジョ級(1910年、9,832トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23.2ノット)2隻
サン・ジョルジョ、サン・マルコ

チリ海軍
ジェネラル・オヒギンス(1898年竣工、8,500トン、20.3cm(45口径)単装砲4基、15.2cm(40口径)単装砲10門、21.6ノット)1隻

日本海軍
浅間型(1899年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,700トン:、20.3cm(45口径)連装砲2基、21.5ノット)2隻
浅間、常磐
八雲(1900年ドイツ、フルカン造船所にて竣工、9,695トン: 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)1隻
吾妻(1900年フランス、ロワール社サン・ナゼール造船所にて竣工、9,326トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20ノット)1隻
出雲型(1900年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,775トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.8ノット)2隻
出雲、磐手
春日型(1904年イタリア、アンサルド社造船所にて竣工、7,700トン、春日は25.4cm(40口径)単装砲1基、20.3cm(45口径)連装砲1基、日進は20.3cm(45口径)連装砲2基、20.0ノット)2隻
春日(旧アルゼンチン海軍「リバダビア」)、日進(旧アルゼンチン海軍「マリアノ・モレノ」)
筑波型(1907年竣工、13,750トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)2隻
筑波 生駒
鞍馬型(1911年竣工、14,636トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.3cm(45口径)連装砲4基、21.25ノット)2隻
鞍馬 伊吹

ドイツ海軍
フュルスト・ビスマルク(1900年、10,700トン、24cm(40口径)連装砲2基、18.7ノット)
プリンツ・ハインリヒ(1902年、8,890トン、24cm(40口径)単装速射砲2基、19.9ノット)
プリンツ・アダルベルト級(1903年、9,090トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、20.4ノット)
プリンツ・アダルベルト、フリードリッヒ・カール
ローン級(1905年、9,550トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、21.1ノット)
ローン、ヨルク
シャルンホルスト級(1907年、11,610トン、21cm(40口径)連装速射砲2基+同単装速射砲4基、23.5ノット)
シャルンホルスト、グナイゼナウ
ブリュッヒャー(1909年、15,840トン、21cm(44口径)連装速射砲6基、25.4ノット)

イギリス海軍
クレッシー級(1901年竣工、12,000トン、23.4cm(40口径)単装砲2基、21ノット)6隻
アプーキア、バッカント、クレッシー、ユーライアス、ホーグ、サトレッジ
ドレイク級(1902年竣工、14,150トン、23.4cm(45口径)単装砲2基、23ノット)4隻
ドレイク、グッド・ホープ、キング・アルフレッド、リヴァイアサン
モンマス級(1903年竣工、9,800トン、15.2cm(45口径)連装速射砲2基+同単装速射砲10基、23ノット)10隻
エセックス、ケント、ベドフォード、モンマス、ベリック、コーンウォール、カンバーランド、ドニゴール、ランカスター、サフォーク
デヴォンシャー級(1905年竣工、10,850トン、19.1cm(45口径)単装速射砲4基、22.25ノット)6隻
アントリム、アーガイル、カーナヴォン、デヴォンシャー、ハンプシャー、ロックスバラ
デューク・オブ・エジンバラ級(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、23.25ノット)2隻
ブラック・プリンス、デューク・オブ・エジンバラ
ウォーリア級(1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、19.1cm(45口径)単装砲4基、23ノット)4隻
アキリーズ、コクラン、ナタル、ウォーリア
マイノーター級(1908年竣工、14,600トン、23.4cm(50口径)連装砲2基、19.1cm(50口径)単装砲10基、23ノット)2隻
ディフェンス、マイノーター、シャノン

スウェーデン海軍
フライヤ(1907年竣工、4,980トン、15.2cm(50口径)連装砲4基、22ノット)1隻

ギリシャ海軍
イェロギオフ・アヴェロフ(1911年竣工、9,950トン、23.4cm(45口径)連装砲2、19.1cm(45口径)連装砲4基、22.5ノット)1隻

装甲巡洋艦の発達にともない、イギリス海軍により1908年に誕生した「インヴィンシブル級」は、ついには戦艦と同口径の主砲を搭載するに至る。建造当初は装甲巡洋艦に分類されていたが、後になって巡洋戦艦という新しい艦種名に分類されることとなった。

2009年02月14日

マジカルウィッチアカデミ

主人公の少年ツカサはとある出来事が原因で、目を合わせた女性を欲情させてしまう「魔眼」を持ってしまう。師匠の老魔術師ハスターガルの元で魔眼を制御すべく修行をしていたツカサの元へ大魔術師シルヴィアが訪れ、名門魔法学院で、男子禁制で有名でもある「ウィザーディア魔法学院」へと特別入学する事となった。はたしてツカサは無事に魔眼を制御する事ができるのだろうか? そして前途多難なツカサの運命は……?
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

本作は『ダンジョンクルセイダーズ』の約100年後の物語であり、イリスは2作共通して登場する同一人物である(『アマツ』とも同一の世界観だが、こちらとは共通点が少ない)。

2008年12月19日に続編となる『ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜』が発売された。こちらは同時代・同時期での話となっており、登場するツカサとシルヴィアは同一人物である。

ツカサ・ストロビラントゥス
この物語の主人公。容姿端麗で、近くでよく見ても女と間違われ、シルヴィアから「ショタ」と呼ばれている。
とある出来事が原因で(ツカサは記憶を封じられて覚えていない)目を合わせた女性を欲情させる魔眼「アウグストの目」を持ち、普段は魔力を遮断する伊達メガネをかけている(魔眼が発動された時は女性たちは欲情するが、本人たちもツカサ相手だと分かっているのかまんざら悪い気でもなさそうである)。
性格は純朴で、老魔術師で育ての親でもあるハスターガルの身の回りの世話をしていたため家事全般もこなす。ウィザーディア魔法学院に来てからは、一般生活のだらしないシルヴィアの身の回りの世話をしている。
学院内では首席をとれる程魔法の才能がある(攻撃魔法を除く)事が「ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜」で語られている。
シルヴィア・ヴェスパー
声 - 深井晴花
ウィザーディア魔法学院の教師で、大陸屈指の女魔術師。
スタイル抜群で、魔術師としても優秀で女生徒達からも慕われているが、性格は唯我独尊でわがまま、ついでに生活力ゼロのダメ人間で、同居しているツカサに身の回りの世話をさせているが面倒見のある姉御肌なところもある。風呂と酒が好きで、よく風呂に入って一杯ひっかけている。
過去の出来事でツカサの「アウグストの目」にも関係しており、「罪滅ぼし」も兼ねてツカサにウィザーディア魔術学院の特別入学を持ちかけた。ツカサの魔眼の魔力を抑える伊達メガネを作ったのもこの人で、メガネの材料で過去にひと悶着があった事が『ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜』で語られている。尚、エピローグではツカサの子供を身篭ろうとするがなかなか妊娠せず、『ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜』の冒険を機にほぼ毎日SEXをして子供を身篭る気である。
アルシア・エルグランド
声 - 草柳順子
アイオーン大陸の南方に位置する魔法王国・エルグランドの現第二王女。魔法に興味があり、代々学院長のイリスとも親交のあるウィザーディア魔法学院に入学した。
お目付け役に魔法生物のジークフリードを従えており(はっきりとした男ではないので入学を許可されている)、普段は帽子のように頭に乗せている。ツカサの事は初めて出会った時から好意をもっている。
ミルフィ・ファフスター
声 - 金田まひる
魔法学院生で明るく積極的な性格から、一部の生徒たちのリーダー的存在。ツカサにも積極的にアピールし、そのたびにアルシアをやきもきさせる一面も。同年代に比べ幼い体つきで本人も気にしている。魔力は高いがあまり使いこなせていない。
シズナ・カドクラ
声 - 一色ヒカル
大陸の遥か東に位置する島国「アマツ」での名家・カドクラ家の娘で、剣術のみならず魔法も学びたいと学院に入学した。
剣術はかなりの使い手で、時々いかがわしい行動をするジークフリートに対し木刀を振りかざしたりする。
アマツ独特の風習のせいか、他人をあまり寄せ付けない態度をとるが、ツカサに対しては内面興味があるのかよそよそしい態度をとる。
『アマツ』の主要人物の一人、トウカ・カドクラの子孫。
エクレール・バーネット
声 - 鳩野比奈
ウィザーディア魔法学院の教師兼保険医で、二人の子供を持つ未亡人で(夫は戦争で死亡)、学院内で生活している。
熟女ならではの体つきと母性あふれる性格から学院生の母親的存在で皆から慕われている。魔眼に悩むツカサの事も気にかけている。
ライラ
声 - 白井綾乃
ウィザーディア魔法学院の元となった古代遺跡で、偶然にも太古の昔に魔術師によって封印されていた淫魔(サキュバス)である。強大な魔力を持っている為、ツカサの魔眼の影響は受けない。学院内で唯一の男であるツカサに興味があり、ツカサの筆下ろしの相手をしている。
イリスが学院を創設した際に、彼女の境遇を哀れみ、全女制の学院だから影響がないだろうと封印が解かれた。
イリス
声 - 大波こなみ
ウィザーディア魔法学院長で創設者。外見は少女だが悠久の時を生きており、その気になれば天変地異も容易く起こせるほどの魔力を持つ。そしてアイオーン中央大陸魔法協会相談役も務めている事が「ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜」で語られている。
その正体は、本シリーズの世界を統べる守護神である「天空の三女神」の長女にして「天空と大地を統べる精霊王」である「イリスティア・ヴァルス・ウィザー」である。約100年前の「ダンジョンクルセイダーズ」の後、アイオーン大陸の中央に位置する「ウィザーディア連峰」にて世界初の魔法学院である「ウィザーディア魔法学院」を設立、世界の魔法を未来永劫見守る事とした(世界の魔力の源である魔穴「ヘル=ゲート」もウィザーディア連峰に在り、それの監視のためでもある)。「ダンジョンクルセイダーズ」ではツカサの祖先(少年)と出会うシーンがあり、その時からツカサと出会う事を予知する場面が描かれた。

その他
ハスターガル
ツカサの師匠であり養父でもあり、「北の大賢者」と呼ばれる大魔術師。
大魔術師・アウグストの知人でもあり、「アウグストの目」の被害者であるツカサの境遇を哀れみ、孤児院から引き取り魔眼を制御できるように魔法を教えていた。
シルヴィアがツカサの魔法学院の入学を薦めに来た時、イリスの推薦もあったという事もあり、ツカサに入学を薦めた。
しかしそれでもツカサの事が気になるのか、時折水晶玉を介して会話をし、ツカサも実父以上の存在として慕っている。
アウグスト
かつて大陸に名を馳せた大魔術師で故人。
元々平和を願う正義感ある性格故に、15年前にとある国の民を救うため大戦を止めようと「ある事」をした結果、その国は消滅し、本人も死亡した。国のあった場所は15年経過した現在でも草木の生えない不毛の大地と化し、ただひとつの墓標のみが佇んでいる。
イリスは「『魔力』にとり憑かれた故に戦争を止めるその『方法』を誤った」と嘆いていた。
メープル&マロン
エクレール・バーネットの双子の娘で、普段はジークフリードと学院内で遊んでいる。学園で唯一の男であるツカサにも興味があり、時折遊びに来ている。
ジークフリード
アルシアのお目付け役としてウィザーディア魔法学院に入学した魔法生物で、普段は帽子としてアルシアの頭に乗っている。性格は男だとはっきりとしていないがスケベで、時々女生徒たちにイタズラをし、その度にシズナなどにこらしめられている。
その正体は魔法王国・エルグランドを遥か昔より守護してきた「守護精霊機」であり、現在の体はお目付け役として入れ替えただけで、スケベな性格なのも周囲の目をごまかすためである。イリスとも永い付き合いであり、100年前(ダンジョンクルセイダーズ)、当時の第二王女リーシア・エルグランドが「王家の掟」に従う時に託された最後の手紙をイリスに渡し、いつの日か掟を打ち砕く時がくるのを願っている事を共に語っていた(「アマツ」)での描写などから、元々はイリスの搭乗機であった模様)。
セルシア・エルグランド
アルシアの姉にしてエルグランド第一王女。女王制のエルグランドにて時期女王になる宿命を持ち、妹のアルシアには自由奔放に生きてほしいと願っている。
ヴェラ・フラウ
太古の昔に存在した魔女で、書物には「その容姿は美しく、世紀に一人の力を持ち、その才は五国の王にも値する」と記されているが、イリス曰く「非常に恋多き女であり、自分勝手でわがままな性格」であり、そんな事を数百年繰り返し魔力を酷使した結果、身の破滅を招き、自暴自棄になって「とある事」をしたらしい。
尚、500年前に大国「翡の国」を攻めて覇権を握るべく中間にあるアマツを攻め補給地とし、アマツや翡の国に地中深く封印されている「ヘル=ゲート」を開放し、己のモノにしようとブレビス内で暗躍していた事が「アマツ」にて語られている。
元々は翡の国の出身者で、800年前にもアマツのヘル=ゲートを己のモノにしようと翡の国で暗躍し、「翡天戦争」を勃発させた(その後は緋の国を追放された模様)。

2009年01月28日

箱館湾海戦

箱館湾海戦(はこだてわんかいせん)は、戊辰戦争の一連の戦闘のうち、箱館戦争における1戦闘であり、1869年5月20日(明治2年4月9日)の新政府軍(明治政府)の蝦夷上陸から6月20日(旧暦5月11日)の箱館総攻撃までの間に函館湾で行われた海戦である。

戦闘の経過
箱館政権の艦隊は回天丸を中心に、蟠竜丸、千代田形丸の3隻の軍艦から成っていた。

それに対し新政府軍は、甲鉄艦を旗艦として、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の軍艦から成り、艦砲射撃で陸上の要塞を破壊して陸上部隊の上陸を支援する事を主任務としていた。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

朝陽丸を撃沈する蟠竜丸6月10日(旧暦4月30日)に千代田形丸が新政府側に拿捕され、箱館政権の軍艦は回天丸と蟠竜丸だけになる。両艦とも数多くの命中弾を受けながらよく戦ったが、6月16日(旧暦5月7日)に回天の機関部が損傷し、弁天台場付近で意図的に座礁させ、浮遊砲台的に利用されるようになる。

6月20日(旧暦5月11日)の箱館総攻撃の折には、蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸の弾薬庫に砲弾を命中させ、朝陽丸は爆発轟沈。これによって箱館政権軍の士気を大いに高めるが、程なく蟠竜丸も浅瀬に乗り上げて座礁してしまう。

箱館政権がすべての軍艦を損失した事により、箱館戦争における海戦は終了し、戊辰戦争の最終舞台は陸上戦へと移り変わっていく事になる。

二股口の戦い(ふたまたぐちのたたかい、明治2年4月13日 - 4月29日(1869年5月24日 - 6月9日))は、箱館戦争における戦闘のひとつである。箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を

明治2年(1869年)4月9日、乙部に上陸した新政府軍1,500名は、3つのルートから箱館へ向けて進軍を開始した。そのうちのひとつである二股口は箱館へ至る最短路で、稲倉石から二股を抜けて大野村に至る峠越えのルートであった。二股を抜けるためには、谷を穿つ大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河、そしてその正面の台場山を越えるか、迂回するかしなければならなかった。新政府軍は、軍監・駒井政五郎が松前・長州藩兵などからなる500の兵を率いてこのルートを進撃。迎え撃つ旧幕府軍は、陸軍奉行並・土方歳三が衝鋒隊2個小隊と伝習歩兵隊2個小隊などからなる300の兵を率いて、4月10日に二股に到着し、台場山に本陣を置いた。土方軍は、天狗山を前衛として台場山周辺の要地に16箇所の胸壁を構築し、新政府軍を待ち構えた。

二股口の戦いを描いた古地図
中央を流れる川が大野川で、上で合流している川が下二股川。上に台場山の旧幕府軍胸壁、下に天狗山の新政府軍陣地が描かれている。4月13日午後3時、江差から進軍してきた新政府軍は天狗山を攻略し、そのまま台場山本陣に対して攻撃を開始した。旧幕府軍は胸壁を盾に小銃で防戦し、熾烈な銃撃戦が展開された。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返し、迎え撃つ旧幕府軍も2小隊ずつが交替で休憩をとりながら小銃を撃ち続けた。日没頃から雨が降り出すと、旧幕府軍では弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かした。翌14日午前7時頃、銃弾を撃ちつくした新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退。16時間に及んだ戦闘で、旧幕府軍は3万5000発の弾丸を消費した。戦闘が終わったこの日、土方歳三は報告と援軍要請のために五稜郭へ向かっている。

4月16日、新政府軍の第二陣2,400名が江差に上陸すると、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣され、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くことが容易ではないことを痛感した新政府軍は、4月17日以降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊2個小隊が増強されている。

4月23日、福山藩が警備していた新政府軍の天狗山陣地に旧幕府軍の斥候が近づいて戦闘が始まる。同日午後4時頃、胸壁突破を断念した新政府軍が急峻な崖によじ登って、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行した。滝川充太郎は馬上のまま敵中に突進し、隊士たちも一斉に抜刀して隊長に続いた。不意を付かれた新政府軍は混乱し、自軍の敗走を単身食い止めようとした駒井政五郎は銃弾を受けて戦死。それでも新政府軍は新しい兵を次々に投入するが、旧幕府軍を打ち破るには至らず、25日未明、ついに撤退した。一昼夜以上に及んだこの戦闘で、旧幕府軍は熱くなった銃身を桶水で冷やしながら小銃を撃ち続けた。新政府軍はこれ以降、台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する。

二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕府軍は矢不来で守勢に回っていた。4月29日、土方は援軍を派遣したが矢不来は突破され、これにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる。

宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。これはアボルダージュ(フランス語・Abordage、英語・Boarding)と呼ばれるいわゆる接舷攻撃で、敵艦に乗り込みこれを奪い取るという近代以降では世界でも数少ない戦闘事例である。

明治元年(1868年)、江戸城無血開城に対して徹底抗戦を主張した榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱走後、蝦夷地(後の渡島国)の箱館を占領し、箱館政権を樹立したが、旗艦の開陽を暴風雨で喪失し、海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた。明治2年3月、旧幕府軍は新政府軍艦隊(甲鉄、春日、丁卯、陽春の軍艦4隻と戊辰丸、晨風丸、飛竜丸、豊安丸の軍用船4隻)が宮古湾に入港するとの情報を入手した。なかでも旗艦の甲鉄は、江戸幕府がアメリカに発注したフランス製軍艦で、当時日本唯一の装甲軍艦であった。榎本は、江戸脱走以前から甲鉄の譲渡についてアメリカと交渉をしていた経緯があり、甲鉄を入手できれば、対外交渉においても有利に働くと考えていた。

作戦
元フランス海軍士官ニコールの発案で海軍奉行・荒井郁之助、回天艦長・甲賀源吾らが宮古湾に停泊中の甲鉄を奪取する作戦を立案し、フランス軍事顧問団のブリュネと総裁・榎本武揚がこれを承認した。斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠するというものであった。ごく単純な騙まし討ちであるが、第3国の旗を掲げて近づき、攻撃直前に自国の旗を掲げることは万国公法で認められていた。

作戦準備が整い、回天には総司令官として海軍奉行・荒井郁之助、検分役として陸軍奉行並・土方歳三らが乗船し、元フランス海軍のニコール、コラシュ、クラトーら、ならびに斬り込み隊として神木隊・彰義隊など合わせて100名の陸兵もそれぞれ3艦に乗り込んだ。この作戦に投入された旧幕府軍の戦力は以下の通り。

回天(旗艦)
海軍 : 海軍奉行・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下200余名、元仏海軍・ニコール
陸軍 : 陸軍奉行並・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊10名、神木隊36名
蟠竜
海軍 : 艦長・松岡磐吉、以下100余名、元仏海軍・クラトー
陸軍 : 新選組10名、彰義隊10名、遊撃隊12名
高雄(第二回天)
海軍 : 艦長・古川節蔵、以下70名、元仏海軍・コラシュ
陸軍 : 神木隊25名
甲鉄への接舷は蟠竜と高雄の2艦で実行する予定であった

3月21日未明、箱館を出港した3艦は、回天・蟠竜・高雄の順に互いを大綱で繋いで一列縦隊で進んだ。翌22日、偵察のために鮫村(青森県八戸市)に寄港して情報を得ると、宮古湾を目指してさらに南下するが、その夜暴風雨に遭遇し、3艦を繋いでいた大綱は断絶されて艦隊は離散してしまう。24日には嵐がやや静まり、回天と高雄の2艦は合流できたが、嵐で機関を損傷した高雄は修理を要し、やむなく2艦は宮古湾の南に位置する山田湾(岩手県山田町)に入港した。その頃、蟠竜は互いを見失った際の取り決めに従って鮫村沖で待機していた。同日、山田湾に停泊する2艦の元に新政府軍艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているという確かな情報が入ってきた。目前にいる敵を逃すまいと、蟠竜との合流を諦めて2艦のみで作戦を実行に移すことになった。高雄が甲鉄を襲撃し、回天が残りの艦船を牽制するという作戦で、決行は25日早朝、夜明け前の午前4時とした。

一方、新政府軍では、所属不明の艦船が、宮古湾沖に出現したとの情報を得ていたが、佐賀藩を中心に編成されていた新政府海軍は旧幕府軍を軽視しており、海軍首脳は上陸して警戒を怠っていた。薩摩藩出身の陸軍参謀・黒田清隆はこの情報を重視して、斥候を出してこれを確認するように海軍に促したが、海軍副参謀・石井富之助はこれを受け付けなかった。この翌日、旧幕府軍によるアボルダージュ作戦が実行されることになる。

回天の戦闘24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かう途上、高雄が再び機関故障を起こす。しかし航行は可能だったので、まず回天が甲鉄に接舷して先制攻撃をし、高雄が途中で参戦して残りの艦船を砲撃するという新たなシナリオに書き換えられた。25日、夜明けが迫っていたため、回天は速力の遅い高雄を待たずに単独で宮古湾への突入を敢行する。この時新政府軍艦隊は機関の火を落としており、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われることはなかった。暴風雨による被害で、回天の特徴であった3本のマストが2本になっていたことも旧幕府軍には幸いした。甲鉄に接近した回天が作戦通りアメリカ国旗を下ろし、すぐさま日章旗を掲げて接舷すると、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた。

奇襲には成功したが、外輪船で小回りが利かなかった回天は接舷向きではなく、艦長の甲賀源吾の必死の操艦にもかかわらず、回天の船首が甲鉄の船腹に突っ込んで乗り上げる形となり、約3メートルもの高低差が生じてしまった。それでも回天からは先発隊が甲鉄の甲板に飛び降り、斬り込んでいったが、細い船首からでは乗り移る人数が限られ、またガトリング砲など強力な武器の恰好の標的となってしまう位置だったため、乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコール、相馬主計なども負傷した。春日をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲されて集中砲撃を浴びるに至る。甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれてもなお指揮をふるっていたが、弾丸に頭を貫かれて戦死。形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って甲鉄から船体を離し、回天は宮古湾を離脱した。甲鉄に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わずに戦死。この間、約30分だったと言われる。

艦を放棄して上陸する高雄の乗組員
その後
新政府軍は直ちに追撃を開始、回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた高雄は甲鉄と春日によって捕捉された。艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降している。新政府軍では、回天の砲撃によって損傷した運送船・戊辰丸が北航不能となり、負傷者を収容して江戸へ戻った。

新政府軍の砲術士官として従軍していた東郷平八郎は、この回天による奇襲の衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として日本海海戦の勝利に繋がった。また東郷は、危険な作戦を実行し、勇敢に戦った甲賀源吾について「甲賀という男は天晴れな勇士であった」と評している。

現在、宮古市には東郷が残したこの海戦に関するメモが石碑となっており、観光地になっている。